暑さ寒さも彼岸まで、なんて、そんな言葉もどこかへ消え失せたかのやうに、お彼岸が過ぎても暑い日が続く。季節は巡れど、その季節感は薄れ、時々見たり聞いたり香ったりする、ほんの少しの、微かな季節の名残、微細な季節の訪れを感じて気づく。嗚呼、愈秋か、と。
秋分 雷乃収声(かみなりすなはちこゑををさむ)
季節感は薄れた。
とはいへ日本には、秋分の日だとか春分の日だとかが存在してゐる。故に、忘れさうで失くしさうでもなんとか思ひださせてくれる。季節発見装置のやうなものがこの国民国家の休日には実は仕組まれてゐる。これは、今となれば大変ありがたいことであるし、先祖の知恵であらうし、歴史であらうし、とても重要で大切なことである。
映画「日日是好日」で、「最初に型、枠があって、後から心が入ってくる」といふやうな場面があって、まさに「秋分の日」だとか「春分の日」だとかが、ギリギリのラインで残ってゐる日本の精神性の「型」であると思ふ。僕個人的には、現行の「勤労感謝の日」よりも「新嘗祭」で良いと思ふ。が、しかし、時代に合はせて、といふよりも、自然に合はせて、姿かたちを変へながらも残る姿勢といふものが、そもそもの日本の文化「そのもの」であると捉へれば、勤労感謝の日も建国記念日もそれはそれでよいのかもしれない。
むしろ、お茶を始めて思ふのは、そこに含まれる日本文化の昇華度合ひで、其れ乃ち文化であるといふことであり、重陽の節句を普通に生きてきてどこでいったい感じて体感して学べようか。僕は今の今まで触れることはなかったのである。
中置(なかおき)細水指
さて、お茶のお稽古も「中置」といふものになり、愈季節が巡って来たのだなぁと感ぜられる。
季節が巡ればお点前も変はる。今日は今日だけで、今は今だけだ。一期一会は変はらずに、二度と同じことは起きない、変はるといふことだけがこの世で唯一変はらぬことである。
水指の位置と水指そのものが「細水指」に変はった。水指は常滑焼の谷川仁さんで、器はこちらも常滑の稲葉石水さん。大迫みきおさんの器も使はせて頂いた。お茶は地元のお茶屋さんで北村茶店さん。地元なのに知らなかった。
谷川徹三「茶の美学」
常滑の図書館から谷川徹三文庫が消えた。常滑の姿が変はっていく。文化が薄れていく。
だからこそ僕は、谷川徹三を読むし、常滑焼の器を集めだすし、お茶を習ひお茶を買ふ。
すべては架け橋となるために。
求めたときにそこにあるやうに、求めたときに手に取れるやうに。
余裕を削れば結局、貧すれば鈍する。
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