essay【ほんとうのゆたかさとは何なのだらうか】withコロナの時代において

随筆・本・書評

ゆたかさの正体、雲に似たそのカタチ

「経済的な豊かさの追求」は発展途上の国々において数値的にも見た目的にも、あからさまにわかりやすく求めやすい「ゆたかさ」であって、幸せ=豊かさ(お金持ち)であるといふ図式は確かに求めやすくわかりやすい。

しかしながら、高度経済成長を経てバブルを抜け泡沫に崩壊し、失われた2〜30年間と呼ばれがちな平成を越え令和の新時代に突入した我が国では、どうも経済的な豊かさ=幸せではなく、≒ニアリーイコールであり、ほとんど正しいが、イコールではない状態なのだ、といふことにいよいよ気がついた。

しかも「そのわずかばかりの誤差」の正体こそが実は「ゆたかさ」の正体なのではなからうかといふ、ふわふわとした、どうにもどこか漂ふかのやうな解答をぼくらはなんだか手に入れようとしてゐる。低気圧な、どんよりとした重い雲とかではなく、ある秋の日の、あの晴れた空を泳ぐかのやうなふわっとした雲のやうな解答。近世の秋。

ゆとりといふ名の余白の美、またはその後

「わずかばかりの誤差」にぼくらはなんとなく気づき出した平成年間。ゆたかさの変遷は人々の欲望の変遷であり、経済的な、余りに経済的な成長は、ぼくらを経済そのものの産物と化し、マズイ、しまった、このままではイケナイと舵を取り、目的が目標化してしまった航路の変更を試みた。沈没の予感。

それ即ち「ゆとり」であり「ゆとり」といふ、ふわっとした概念こそ「ゆたかさ」であるといふ曖昧な戦略であった。日本らしいといへば余りに日本らしく、それこそ日本の誇るべき余白の美に近いやうなシンプルな、洗練された言葉の発露であった。

がしかし、イケナイのはふわっとした概念故の「ゆとり」の「ゆとり」であった。ゆとりをもった生活、ゆとりのある時間、を得るためにぼくらは何を学び何を教へられ何をしてきただらうか。ほとんど変はらぬ詰め込み教育とほとんど変はらぬ受験のための就職のための勉強。ぼくはそれに反発するかのやうに別の道を常に選んできた。なかば本能的な回避。

良い学校に行き、良い企業に就職し、といふやうな前前近代的なルートはもはやルネサンスを通り越してギリシアの彫刻群に似てゐる。すべてをグレートリセットする時がこの国は近づいてゐる。大化の改新、建武の新政、明治維新、戦後レジーム、あらたな価値観を皆共通に意識すべきときが来てゐる。

コロナ禍での経験はすべてを白日のもとに晒す。

よいサイクルに入るためには、まず自分の位置を知るべし

衣食住の「衣」が「医」にとって代はられ、いま僕らは医食住の世界に生きてゐる。すべては健康に生きるといふことに繋がる。しかし、ただ健康に生きるだけでよいのか?先ほど前前近代的といったギリシアのプラトンが述べた真善美なるものこそ大切なことなのではないか?我々は大いに考へる必要がある。

生きるために必要な食、生きるために必要な医療、生きるために必要な住まい、生きていく世界では衣服が必要で、医療の充実には教育が必要で、良い住まいには良い文化とマネーが必要で、世界は巡り巡って還元回帰でできてゐる。よいサイクルを作ることが大切であり、いまの我が国及び世界は悪くはないがよくもない、どちらかと云へば負の方向のサイクルに入ってゐる。正のサイクルに入るためには、自らの立ち位置を正確に把握しなければならない。

小林秀雄の直言、俺は先に行く

その日暮らしの生活や政策は捨ててしまはう。少子高齢化は分けて考へるべきだと誰かが言ってゐた。その通りだと思ふ。少子化と高齢化にわけて考へるべきだ。どちらとも悪ではない。高齢化に対応する社会と少子化に対応する社会を両立させることが大切だ。

マネーのリソース配分を考へ直さう。未来への投資が少なすぎる。現在や過去への投資が目立つ。未来への投資をもっと積極的に大胆に行ふべきだ。未来への投資ができてない故に未来へのヴィジョンが見えてゐない。今と過去しか見て居ない。昔、小林秀雄が言ってゐた、「反省したいやつはとんと反省すればいい、おれは先に行く」的なことを。まさにその通りで、先を見据ゑて進まねばなるまい。

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