うつわを求めて訪ねたら、前田ゆかり邸にて
ずっと思ってゐたのだけど、なんだか手につかなかったり、また今度、とか思ってゐるうちに結局ぜんぜん思ったままになってゐることがある。
あしたからダイエットしようとか、あしたから勉強しようとか、これでタバコやめようとか、これでギャンブルはもう最後だとか、色々なことが人それぞれ、「思ひながらもなかなか手付かずな状態」なコトが、なんだかんだ1人ひとつぐらゐはあるかと思ふ。
その何だか「やめる」とかいふ、さういったネガティブなコトではなく、「やる」といふやうな、ポジティブな目線で見たときに、ぼくにはいま、色々とやりたいコトが、ある。
お茶を習ひたい、馬にもう一度乗りたい、書を再開したい、その他ほかにも何やらかんやら多々あるけれども、中でもひとつ、「フルーツを毎日食べたい」っていふ、なんだかこの話の流れからすると「え?えーっ⁇」的な「ん?そんなコト?」みたいなコトを僕は今日また始めてみた。
は?とか思ふ人も居るかもしれないが、フルーツとか野菜とかちゃんと食べてねって言はれ続けて早2年ほど(?)気をつけてはゐるつもりも実は気をつけて居るだけで、全然自主的主導的に摂取はしてゐなかった。と思ふのだ。
で、今日、またいそいそと、フルーツを、ふと買ひに出かけ、はてさて、コレとコレと、ふむふむコチラも……、と買って居たら、結構な量になりまして、……はて、これ、どうしたものやら。これらを盛る器がうちにはない。僕には大皿を買った記憶は、ない。
むむむ、まあよいか、と帰り道、ふと、待てよ、と。ゆかりちゃんの器が欲しいなと。ゆかりちゃんのあの感じの、で、大きな器があれば欲しいなと、帰り道、思はずTELした夕刻過ぎ。ゆかりちゃんは心よく電話出てくれまして、とりあへず、自宅まで、器を拝見しに行くことになりました霜月半ば過ぎ。
ーーゆかりちゃんとは、知り合ひの常滑焼作家さんで、とっても風合ひのある、人間味のある、無骨だけれども繊細な、優美ではなく幽玄な、なんとも「質量の大きな器」を作れる稀有な作家だ。ーー
で、訪ねてみたら、まあご飯でもと。図々しくもぼくは流れの中でお家へ上がらせてもらひ、晩御飯をご馳走になり、酒を酌み交はし、色々と楽しい話が出来、最高の数時間を過ごさせて頂いた。
いろんな情報や、ありとあらゆるモノが溢れるなかで、必要なものや必要な時間は、このやうな時間だし、ぼくと関って尚且つ共感してくれる人には感謝しかない。
で、結局、最後に一枚ぼくは器を選んで、買った。
帰り道、器を抱へながら、過ぎ去った素敵な時間と思ひ出を盛るやうな、そんな気分で自宅に帰った。大切な時間は大切なモノに寄り添ふのだらう。最近、また、会ひたい人に会へて居る。きっと、コロナが悪いのではない、最初から悪かったものをコロナが順次暴いてゐるのだ。よって大切なモノが今はよく見える。
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