茶道日誌003 不識水指(ふしきみずさし)

永瀬豊の場合

サーバー代が忘れた頃にやってきた。これを高いと見るのか安いと見るのか、人によって意見は様々であらうが、決して安くはない。と、再認識したところで、八月なんだかお疲れモードで過ぎ去った今、九月の初めに少し心の余裕をもって望まないと自分が壊れてしまふ、さう思ってブログを書く。

長月 禾乃登(こくものすなはちみのる)

お茶のお稽古に行くとき、ちょうど夕暮れ前で、お稽古場の水屋から見える海に沈む日没の夕暮れ景色がとても美しく、しかしながら今日は雨模様で、八月中、ずっと見えてゐたあの夕焼け空は今日は見えなかったけれども、その夏から秋へと移りゆく雨の音、気温、ツクツクボウシが鳴く声が、それはそれで、またなんともよい。

蝉しぐれから虫時雨に変って、秋の暮、お茶もなんだか「わび」感がでてくる。と言ってその表現が合ってゐるのか、正しいのかはわからないが、自らがどう感じどう表現するかが大切であるのならば、あらゆるものが膨張した夏といふ姿から収斂していくあの美しい秋への入り口が、この時期には感じられるのである。それを「わび」的であると言っても別段間違ひではないだらう。正しくもないかもしれないが。

風のまつりが行はれる時期、風神も雷神も今年はコロナで自粛してマスク姿で読書でもしてをるかもしれぬ。


不識水指(ふしきみずさし)

 毎回、新しいことを得てゐる。今日は「不識水指」を覚えた。

覚えたと言って単語を覚えただけだが、常滑といへば「不識」ですよねぇとなっても、今日の今日までそんな単語は知らなかった。だからお茶は面白い。この年になって興味のあることで、新しいことを覚えられる、教へてもらへるといふことは大変ありがたいことである。不識といって、達磨、となれば、やはり雪舟で、そんなつながりもシナプス状につながる心地よさ。

鏡柄杓と袱紗捌き

先生の所作を見てゐるとやはり一挙手一投足が勉強になる。特に基本的なことは大変勉強になる。鏡柄杓の所作、袱紗捌きの動作、今日は再度改めてより自然な美しさになるやう勉強し直した。まだまだ勉強不足だが、この途上もまた心地よいといへば心地よいものである。

川端康成と茶道

最近ふと手に取るとどうしても茶道の、茶の湯の風景に目が奪はれる。

川端康成とお茶について、その他作家とお茶について。



和敬清寂

大徳寺と後醍醐天皇についても興味がある。

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