茶道日誌002 桑小卓(くわこじょく)

永瀬豊の場合

文月 蓮始開(はすはじめてひらく)

いつのまにやら7月で、気づいたら、紫陽花の時期も終はってゐた。

時折、蝉の声も耳へと入る。しとしとと、降る雨はどこへやら。

にわか雨とは言ひ難い、ゲリラ豪雨が市中を襲ふ。季節は小暑の夏。

日暮れの時間にコチラの身体がまだ対応してをらぬ、まだまだ明るい午後六時。

川端康成「千羽鶴」

手にとったのは、川端康成の「千羽鶴」。

伊豆であんなことがあったからなのか、

しかしその前に既に「伊豆の踊子」を手に取って読んでゐた。

次はふと千羽鶴を手にとって頁をいつのまにか開いてゐた。奇遇なものである。

今年始めた「茶道」まさにその世界がそこにはあった。

縁とは、かういふことをいふのであらう。


いろいろな単語を日々新に

茶道のお稽古へ行くと新しい単語に必ず出会ふ。

今月出会った言葉を列挙してみると、

唐金の切合・平水指・渡辺清・寄付・本席・糸薄・水引・桔梗・河原撫子・下野・黒澤有一・伊藤平雄・浜朴・鯉江明・平茶碗・夏茶碗・馬盥・胴返し・朝鮮風炉・敷瓦・御深井焼・色鍋島・今泉今右衛門・細水指・明智光秀・縞薄・秋海棠・桂籠……。

そして「桑小卓」。

桑小卓(くわこじょく)

と、調べましても欲しい情報と言ひますか、

こちらが求めてゐるコト

は、なかなか書かれてゐないもので、

これは特に茶道に於いて明確なんですが、いざ習ひ始めて感ずることは

茶道の精神性からして(本質と言ひ替へてもよいが)

いまを大事にするが故の今の喪失

良くも悪くもその上に築き上げてきた道であるが為の

現代機器で調べた見た目の欠乏

情報の欠乏症

実は相伝されてゐる故に本来は喪失はしてはゐないのだが、見た目に感じにくい。

新しい時代にどう生きて行くのか、実に楽しみである。

茶道と共に生きよう

コロナ禍となり早一年半、茶道を始めて半年ちょっと。習ひ始めて本当に良かったと思ってゐる。それは、よい先生に出会へたこと。このまま続けられさうである。ぼくが求めてゐたことがそこにはある気がしてゐるし、実際そこには求めてゐるものがある。教へてもらへる喜びと、表現のニュートラルな精神性としての心持ちと、静と動の流れ方を、日々是新に得ることができる。

茶道、求めたときにそれがそこに在るといふことは、幸せなことである。



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