読書日誌001 伊豆の踊子 / 川端康成

随筆・本・書評

読書日誌と銘打って、果たしてどれだけ続くのかわかったもんぢゃない。001と言ってみたって、10や20すら、続くかどうか、そんなことわかりゃしない。それでも良い機会である。試しに、なんだか気持ちも色々と、すべてがまあまあ落ち着いて、本棚の整理も少し片付いた今、読書の記録をつらつらと、残しておくことも、まあ別に誰かの迷惑になるわけでもないし、なんなら誰かの読むきっかけになったりするかも知れぬし、プラスにならぬとも、マイナスになることもあるまい。

17歳の僕と37歳のぼく。

手元にある、川端康成「伊豆の踊子」の裏表紙を開いてみる。

「平成十三年」とある。

西暦で言へば2001年、今から20年前、さうだ、ぼくが本を読み始めた頃である。

その頃のぼくは人生に対する目標を失って、初めての大きな挫折を味はってゐた。ずっと目指してきたことを諦め、目の前からすべてを失ったかのやうな喪失感、生きる意味などあるのだらうか、そんな自問自答の中、ふと手にとってゐた本。

失った場所に、ポッカリと空いた穴のやうな空間に、手にとって読む活字がちょうどよく当てはまり、次々といろんな作家の本を手にするやうになっていった。何かはわからないけれども、何かを求めてぼくはただひたすらに本を読んでいく。

美しいと言はれる文章にきっと触れたかったのだ。文豪とよばれるやうな、教科書に載ってゐる、国語の便覧に載ってゐるやうな作家の本を、まずは有名なものから、順に時系列に沿って読み漁っていったやうに覚えてゐる。そのうちのひとつに勿論「伊豆の踊子」も含まれてゐたのだらう。ぼくが本を読み始めて最初の方に選んだ、読むべき本と認識し、手に取り買った本。

経験を積んでわかるよさがそこにはある。

心の動き、感情移入、情緒、艶めかしさ、奥ゆかしさ、文章の端々に、17歳のぼくでは感じられなかった、美しさ、瑞々しさを20年経って改めて読んでみると感じられる。名文が名文たる所以であらう。この年になって、縁あって下田に興味をもち、訪ねてみたいところだと思ったが故に、さう言へば…と、伊豆の踊子を手にとった、そのすべてが、今、まさに今読むべき時だよと、天からの啓示であったのだらう。漸く、時を経て漸く、川端康成のよさ、日本語の美しさ、それを素直に感ぜられる歳になったのだなぁと、いたく感慨深い。

20年の月日が教へてくれた感傷と鑑賞。

読むべき人:

  1. 30半ば過ぎて色々経験を一通りしてきた人
  2. 10代や20代またはもっと若くして本を読み始めた読書初心者
  3. 純粋な日本語の瑞々しさを感じたい人
  4. 伊豆下田に興味がある人

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