バヤリースと田中美知太郎

随筆・本・書評

ふとしたきっかけの、ふとした瞬間に、僕らは生きてゐる。

いまここにかうして僕がポチポチとPCを打ち込みながら空調の効いた部屋で蝉の声を聞きながらこの文章を書いてゐるといふことも、ふとしたきっかけのふとした瞬間の偶然性の中で生まれたただただ必然的な様子なのであらう。

ある知人であり同業者でもある(親しみを込めて彼女のことを友人と呼んでも差し支へはないであらう)御方がある探しものをしてゐたことにこの表題タイトルは起因してゐる。

ギリシア語の辞典

ギリシア語の辞典を彼女は訳あって探してゐるやうであった。

ぼくはそのむかし田中美知太郎に傾注したことがあり必然的にプラトンその他のギリシア哲学に触れることとなり、その先にはギリシア語入門、ギリシア語文法、ギリシア語辞典の入手勉強が待ち構へてゐた経験がある。そんなにギリシア語自体はディープに深淵に入り込まなかったけれども(仕事が忙しくなったりライフスタイルが変はったりして読めなくなった記憶がうっすらある)あのときの傾注度合ひは今の僕の思考回路の三分の一ぐらゐに影響をきっと及ぼしてゐる。

ぼくは、彼女に、おすすめの辞書の画像を送った。


新品を買ふのもよし、中古を買ふのもよし、ギリシア語辞典は枕にするにはちょうどよい分厚さの枕にするには固すぎる代物で、人生の枕にはきっとちょうどよい厚みなのであらう。

引退する年齢とは

そんなギリシア語を少しかじってゐた頃をこちらは思ひだして、ゆっくりと「やりたいことをやりたいやうにやる」ただそれだけのことがどれだけ大変なことか、アラフォーになったいまでは心底さう思ふ。さう思ふけどこれからの10年ほどがきっと大事な10年で、むかしから人生50年と思って生きてゐるから、50でゆるやかにフェードアウトしてあとは若い人たちにこの世界を任せて、僕は穏やかに緩やかに好きな本を読んで好きな場所で好きな人と過ごしてゐたい、そんな風に思ってゐる。40過ぎたら不惑、50過ぎたら天命を知り、60にもなれば耳順、さてさて、心に迷ひがあと数年でなくなるのであらうか。

哲学とセレンディピティ

そんな話をしながら、宮古島の話になり、ミコノス島の話になり、エーゲ海クルーズ、引退後の話、それでもぼくに美味しいマティーニを作ってねとギリシア語辞典の彼女に言ったら、バヤリースの話になったのだ。どんな流れで?これこそが哲学とセレンディピティであるといふ話。

人生とは偶然的であり、しかしながら人間自身が知覚し選択し一瞬一瞬を生きてゐるのであれば、その偶然的に思はれる選択の一部もしくは大部分は必然的であると言へるであらう。而して引き寄せた「コト」は幸せな「コト」である。自ら欲して自ら引き寄せたその「モノ」はきっと幸せな「コト」である。「ヒト」は偶然の中に必然を見出し、必然の中に偶然を探し出せる唯一無二の生物であらう。その事自体がまさに偶然。

バヤリースと田中美知太郎は故にその偶然性こそが哲学の道なのであらう。



文月も終はる蝉の朝。

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