茶道をなぜ習ひ始めたのか

随筆・本・書評

むかしから興味はあった「茶道」

とくにバーテンダーとなってからは、バーテンダーにも「道」があると気づき、いまでは、バーテンダーとは「職業」ではなく「生き方」そのものであると、ぼくは思ってゐる。

バーテンダーとして生きて進み行くと、必ず交はる道に「茶道」がある。

その見え隠れしてゐる茶道に興味を示しながらも、ぼくは今までその道に入ることはなく、ただ横目でちらちらとその様子を伺ひながら、ぼくはぼくで自分の歩む道、則ち「バーテンダー道」を一歩一歩前へ前へ進み、歩んできた。

コロナ禍の昨今、より生き方や時間の使ひ方、必要なものや大切なことをもう一度考へる機会が皆それぞれ増へたやうに感じてゐる。こと自分に限って言へば、圧倒的に自分を見つめ直す時間が増へた。

茶道、千利休以来、日本人の精神性に強く影響を、いや、日本人の精神性を体現具現化し、尚且、体系化したものが「茶道」であらう。

ぼくはその精神性を求めたのである。

だから、宗派は色々あるが、どこでもよいといへばどこでもよかった。強いて言へば、有楽流に興味はあったが、それは紙一重で縁がまだどうやらなかったやうである。

縁、一期一会といへば、まさに茶道の精神性そのもの、ではなかったか。縁を大事に、大切にしてゐると自然と必然と偶然に、色々と巡り巡ってくる。

ぼくは今、尾州久田流にたどりつき、たぶん来年からはお稽古に行くこととなるだらう。

線の作り方、佇まひ、指先の使ひ方、精神性、すべてがそこにはあった。ぼくの学びたいすべてが、一日小一時間ほど見ただけではあったが、一瞬一瞬にすべてがそこに含まれてゐた。

道とはやはりひとつの職業に留まるやうな言葉ではない。生き方、そのものである。

世界はこれからどこへ向かふのか。

その前に、自分はどこに向かっていくのか。自分はどこへ行きたいのか。それを明確に明朗にし進んで行かうといふのが、今回のぼくの行動。

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