essay【コビト戦争】COVID-19 WARの時代

随筆・本・書評

コロナはただの風邪と言ってゐる人に告ぐ風邪の怖さを知らない人たちへ

・コロナはただの風邪だと言ふひと達が居る。いやむしろ最初から、あのダイヤモンドプリンセスの頃から、いや、その遥か前から、そもそも風邪と呼ばれる症状のうち10~15%ぐらいは四つのコロナウイルスによるものだと判明してゐる。コロナウイルスとは

・それを踏まへて、且つ、あのSARSやMARSを経験した我々は(日本人にとってはそれほど深刻ではなかった問題)今回のコロナウイルスCOVID-19を「ただの風邪だ」と済ませるほど楽天的に呆けてはをらぬはずである。物事をしっかりと見つめ見極め、自分で考へる力がある普通の人であるのなら。

・日本人にとってあの最初の事件、ダイヤモンドプリンセスの経験は、ある種のサンプリング、データの取得といふ意味に於いてまたとない機会であり最大限むしろ活用すべき事案であった。が、例の如く、毎度のことながら、「臭いものには蓋を」の精神性が働き「できればなかったことに」…そんなことできるわけもないのだが、感染者数としては分離しながら二面性を保った世界にぼくらは未だに生きてゐる。

・あれから、ちょうど2年。個人的に思ふことをまとめてみると、

◯人間は今も昔もそれほど変はらず、確実な進歩などは決してしてをらず、3歩進んでは2歩下がり、2歩進んでは3歩下がるかのやうな生き方をしてゐる。(天然痘、ペスト、スペイン風邪、その他の頃もきっと世界はこんなやうな流れの中に居たのだらうと想像できる)

◯人間がそれほど変はらないのと同様に、日本人もそれほど変はらない、のならまだしも自ら考へることをしなくなった日本人は、退化の一途を辿ってゐる感。(斜陽、もしそれを愉しむぐらゐの気概があるのなら日本人もまだ捨てたもんぢゃないが、そんな美意識など漂白されてしまった)

◯(これは賛否両論あるだらうが、)例へば、オウム事件、あの未曾有の事件、当事者を処して罰して終りにした感覚が、あのダイヤモンドプリンセス号から続く、いやその前から続く日本の悪き「失敗の本質」であらう。殺して、なかったことにするのであれば、もっと何か別な方法で、社会に役立てることも、もしかしたら出来たのかもしれないと、個人的には思ふ。(無駄、無常、無といふ感覚、白、水に流すといふ感覚、直視せずに事実そのものにまさに蓋をするあの感覚)

・翻って、さて、ぼくは違ふと言ひ切れるであらうか?批判した彼らと同じ穴の狢なのでは?自らを疑ひ、問ひ、肯定しながら、ぼくはぼくで生きていくしかないのであらう。

・ひとは誰しもが孤独である。孤独であるが故に、人は人と繋がって居たい生き物なのである。孤独のない人生は、季節のない一年と同じである。秋の紅葉は、枯れゆく切なさと巡る安心感があって初めて美しい。

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