essay【茶道の所作に見る大切なこと】ふくさの折り方しまひ方ひとつで、何もかもが崩れてしまふ世界観の話

永瀬豊の場合

枠組みがなければ、それがはみ出してゐるのかすらわからない

書道を習ってゐたころは、まだまだ幼く、幼いながらも覚えてゐること、からだで覚えてゐることは、礼に始まり礼に終るといふことぐらゐ。もちろん、綺麗な字を書く時間ではあった。が、いま思へば、たしかにその場といふのは、礼に始まり礼に終りその中で綺麗な字を書くといふ、一連の流れのなかに常に存在してゐたその暗黙のやりとり、それこそが書道であり場であったのだなと。

翻って、おとなになってからつい最近習ひ始めた茶道。割り稽古といふ、ひとつひとつの所作を分割して覚える稽古の最初に、帛紗捌き(ふくささばき)といふものがある。バーテンダーで云へば、バースプーンの扱ひ方のやうなもので、たぶん一生、これは自分自身に付き纏ふであらう大事な所作である。(と思ってゐる。)

それ自体の稽古はもちろん大切なのだけれども、いまの自分の状態から感じ取れるのは、それを扱ふといふことは、それをきちんと仕舞へるといふことであり、それをきちんと仕舞へるといふことは即ちそれをちゃんと扱へるといふことであらうといふこと。

枠組みとは型であり、型にはめれなければ始まることすらできない

ちゃんと仕舞はないとおかしなことになる、確かにその通りで、折り目も何もかもぐちゃぐちゃにしまってしまへば使ふときに使へないばかりか、すべての世界が崩れてしまふ。なるほど、むかしの人がお菓子の表袋をビリビリっと破かずに丁寧にあけたりするのも、なるほどなるほど今やっと腑に落ちた。そんなこと、みんなもっと若い頃に気づいてゐるのかもしれないが、ぼくは今になってなるほど!と、さういふことだったのかと、この帛紗捌き、その了ひかたひとつに於いて、むむむぅっと、妙に納得してしまった。

世界のバランスはすこしのことで崩れてしまふといふこと

それに気づくひと、気づかないひと、気づけない人

後になって気づけることもある(といふよりも後になって気づくことのほうが世の中多いに違ひない)のならば、学び直すやうな世の空気、世界観が必要であらう。義務教育を終へて、何も疑問なく高校大学就職といふやうな一直線の、一律平等であるべきといふ世界観は、そこからはぐれたもの、突出したものを弾き飛ばし、平な、のっぺりとした、ただただ平面なものしか世の中に残らない、それが普通のいま現在の通常の世の中。もうそろそろ新しいマッピングをしなければならない時期が地図を書き換へる時期が、もうとっくの昔に来てゐるのではないか?(ぼくらはそれに気づかないふりをしてゐるか、もしくは気づけてゐないのか…)

茶道を始めて、ほんとうによかったと思ってゐるひとつひとつに意味があり、ひとりひとりに意味があり、ひとつの世界はすべての世界とつながる一は全であり、全は一である世界観。だからこそ、正しく丁寧にたたんで、しまふ

新しいことを個人的には始めたが、昔からあるものを学ぶといふことは人生の土台として非常に大切なことであり、そこで得られるヒトコトモノはぼくの今後にとって非常に大事なことであるのだらうと感じてゐる。

それは月に手を伸ばすかのやうな行為なのか?

世界が停滞に陥り、不安と悲観的楽観が交錯するなかで、茶の一服は、止まったなかに流れを見出す、流れの中に静止を見出す、精神上の、必要不可欠な、ここちのよい場をぼくらに問ひかけてくれる、何かさういった「気づき」といふことなのであらう。それが「禅」的なものなのかもしれないし、所謂「侘び寂び」といふそのなかに見出すものなのかもしれない。

言葉にすれば遠く離れていってしまふやうな、近づけば近づくほど遠ざかってしまふやうなものなのかもしれない。

手を伸ばせば届きさうな、しかし手を伸ばしても届かない、むしろ遠いことに気づき、そこでまた一歩近づくやうなそんな話。

令和三年の紀元節の日に。

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