「LIFE SHIFT / ライフシフト」

随筆・本・書評

選択できる世の中に生まれて感じる不幸の度合ひ

いま、ぼくが、この文章を書いてゐるときにウクライナでは生きるか死ぬかの防衛戦を繰り広げてゐる。

それは、ぼくが、それを選び日本人で生まれるかウクライナで生まれるかの選択をしたわけではない。

ぼくはぼくで、この現代の日本に日本人として生まれて、キーウやマリウポリの戦況を遠くも近しい距離感で見つめてゐる。

生まれた場所、時代、選択の余地のないランダムな世界線は、ぼくらの今後の生き方の、その選択によって、

幾許か後天的に、その選択の幅を広げて、「生きたいやうに生きられる自由」を良心と良識の枠の中で選べるやうにしていくべきであらう。

リンダ・グラットンがこの本の中で述べてゐることは、ある種、幸せな人々の不幸の度合ひの違ひである。

が、しかし生まれた時点では誰も悪くはない、誰がどうして、どこからどうやって、世界は形作られていくのか。

人の不幸を見て、自分はまだ大丈夫だと、自ら向上心のない、下を見るしかない能力の方々が作ってしまった世界。

と、それに気づいたぼくら世代の闘争は実はもうすでに始まってゐる。

選択できない世の中に生まれてしまった幸せな日々

ぼくらより上の世代、いまの50代よりも上の世代、その幸せはぼくらにとっての不幸であらう。

ぼくらがその選択性のない選択をいまはしないのと同様、彼らもまた生まれたことに罪はない。

ただし、いつの世も言へることは「変はれぬものはいずれ淘汰される」といふこと、驕れる者久しからず。

ウクライナに生まれるか、日本に生まれるか、ロシアに生まれるか、台湾に生まれるか、僕らは選択できない。

しかしながら生まれてからの選択はある程度の自由度をもって人生の航路を選択できる、幅の違ひはあるにせよ。

国連のある種の役割は認めつつも新たな枠組みが必要なのも痛烈にわかる。

それが、SNSであってもよい気がする。Twitter、Instagram、ある種国際連合よりも国連っぽい。

選択できなかったことは、マトリックスの世界を見てもわかるやうにある種の幸せな日々である。

しかし、本当の幸せを自ら手に入れやうとしたときに仮想現実は崩れ落ち、現実の醜悪な世界線を生きることになる、真善美を求めて。

ひとたび真善美を求めた旅に出てしまへば、もう二度と後戻りはできないであらう。

ぼくらがどれだけ過去の償ひをしろと隣国から言はれてもそんなこと知ったこっちゃない、過去に生きる亡霊とともに生きてはをらぬ。

前を見よ、前へ進め。大日本帝国の償ひは大日本帝国が国体を壊してまでして行った、その末の世界線、現代日本。

選択は、いま、どう生きるのか。それによってぼくらは後のネオと呼ばれるか否か、ぼくらはそんな世代である。

人生とは選択の連続である幸福度の踏み絵

今一度戻って、ライフシフトの話。


これからの10年をどう生きるかで、あとの30年が変はってくることを皆が意識すべきである。

この1時間をどう過ごすかで今後の3時間が決まる。といふインパクトはそこに複利効果も相まって非常に大事なことなのであらう。

あなたはいま何をしてゐますか?

ぼくは何のためにこれを書いてゐるだらうか。

自問自答が必要で、それが必要な選択なのであらう。

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