essay【余裕とは余白であり遊びである】余裕がないといふ鉱物的硬さの嘆き(雑文)

永瀬豊の場合

3月に入り、国による緊急事態宣言は解除され、地方自治体独自の自粛要請も緩和されて、ぼくらの時間的には「日常」が多少、ほんの少しだけ戻ってきた。戻ると言っても、コロナ前の「日常」が全く同じ形で戻るといふことは決してなく、これからもビフォアコロナの生活に何事もなかったかのやうに還るといふことは、おそらくない。大きなシフトチェンジが大胆不敵に2020年に訪れたのだ。ポールシフト並みの衝撃的転換点。

さて、バーテンダーといふ生き方をしてゐると、このずっと断続的にやってくる「飲食店の時短営業要請」は色々と働き方自体を考へさせられる部分もあるし、辟易してゐる部分もある。総じて言へることは、「結構もうだいぶ精神的に疲れた」といふ正直な感想が溢れ出るだけである。ころころと変はる方針と(目的を見失った指導的要請)終はりの見えぬ戦ひを強いる日常(出口は見えない、勝算も見えない戦ひ)これはまさに、どこかで聞いたことある、これぞ我が国得意の戦略なき戦争方法そのものではないか!むかしも今も人間さう簡単には変はれぬ。特に指導者は何にも変はってをらぬ、むしろ劣化してはをらぬか?自問自答せよ。

と、余裕もないので余裕がない文章になってしまふ。愚痴や喧嘩など別にいらぬ。よりよい未来が欲しいだけ。より善く生きる今が欲しいだけ。だから、余白が大事なのに、余白のない世界が目の前に広がってゐる。さて、いろいろリセットして、リフレッシュしよう。すべて「Re」がつき戻るといふ意義であるなら、その言葉の全ては「元の場所に戻る」といふ意味である。なるほど変化が多く尚且早すぎて身体がついていかぬ。しかし、変化に対応したものだけが生き残るのは歴史の示すとおりである。

今日は久々に文章が書きたかっただけ。雑文

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