小林秀雄の考へ方 考へるヒント

随筆・本・書評

インフォデミックにのまれた、幸せな葦

考へるといふことは、人間が生きていくために必要不可欠な能力であって、考へることなくして人間は決して平穏無事には暮らせない。何にも考へずに道を歩いてゐたらそのうち車にはねられるだらうし、何にも考へずにお金を使ひ続けたら皮肉にも遂には考へ出して深い穴から抜け出せなくなるだらう。

考へるといふのは、なかなか特別な、人間特有の生きるための能力と言へる。

人間は考へる葦であると、昔パスカルは言ったけど、その時から比べて人間はきっと考へるといふ作業を怠って考へることを放棄し始めてゐる。いや、現代技術が発達したおかげで簡単な計算や考へる行為は機械が奪ひ去り、ほとんど何も考へなくても暮らしていけるやうに世界は進んで、その結果、人間は進化しつつも退化して、どんどん考へなくなってきてしまってゐるのだ。現代社会に跋扈する考へない人間などは、もはや葦ですらない、ただの畜生であることが多いのだけれども。

情報があふれる中で、まさにインフォデミックとはよく言ったもので、ありとあらゆる情報がパンデミックをおこして僕らを四六時中襲ってくる。確かに人間は考へることをしなくなった。しかし、それも当然といへば当然の帰結で、四六時中否応なしに襲ってくる膨大な量の情報の波に耐へるためには、右から左へ受け流し聞き流すか、完全に無視するかのどちらかで、さうでもしなければ僕らは膨大な情報の海の中で溺れて窒息してしまふであらう。ここへきて、人間の生存本能が、考へないといふ選択を選びだしたことはひとつの事実である。

結果、ただの葦ほど幸せなものはない、といふことである。

インフォデミックのなかで迫られる選択

考へない、ただの葦。

なるほど、自然に還っていく、ナチュラル志向、それはそれで美しい。なんだか健康的であるし、なんだかよい気分でもある。自然の中で自然に暮らす。幸せなことではないか。だが待てよ、この傾向は現代社会にあるにせよ、その選択は誰がしたのか。そこが重要である。流れの中で、本当に何も考へずに自然と、ただの幸せな葦になってしまったのか。流れを把握しつつ、考へないといふ選択肢を取りつつ自分で自然へと還ったのか。結果は同じに見へて実は大きく異なる。

映画マトリックスの世界は、監督ウォシャウスキー姉妹がジャン・ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」に影響を受け、更には出演者にはそのボードリヤールの本をまず読ませて、あの世界観を作り上げた。映画の中で、人々は等しく同じく生きてゐるが、ある日気づく、生かされてゐるのか、生きてゐるのか、そしてまさに選択を迫られる。考へないのか、考へるのか。

リスクを取らない選択は確かに現状維持の幸せな世界なのかもしれない。しかし、現実を知った今果たしてその状態は本当に幸せな世界なのか。最早幸せの鏡は崩れ落ち瓦礫の中で生身の人間がもぞもぞしてゐるだけのそんな状態世界が果たして幸せな状態なのか。あなたが人間であるのならば絶対にそこで思考が働く。脳が動く。バーチャルとリアルがITの進化によって薄い被膜で遮られただけの、浸透膜状の透過組織で、あちらとこちらがつながった状態となってしまった。もはやここは現実なのか仮想現実なのかわからないし、なんならそのどちらも正解である。仮想現実が現実化し、現実は仮想現実化した。

一貫してフランス哲学者は世界の先を見通してゐる。パスカル、ジャン・ボードリヤール、ジャック・アタリ。パスカルについて僕がより強く印象をもつやうになったきっかけは小林秀雄である。彼は、考へる葦であったし、日本のモンテスキューであった。

生きることとは考へることそのもの

彼、小林秀雄の「パスカルの『パンセ』について」を読んだ時、ぼくはひとつの何か読書において得られる重要な、何かしらの表現できないやうな確かな何かを手に入れた、そんな気がした。そもそもなぜ小林秀雄だったのか定かではないが、覚えてゐるのは中学校や高校の教科書で小林秀雄の文章が載ってゐたこと。ぼくは受験してないけれども、大学受験勉強のテキストで小林秀雄の文章が特に「難しく」「難解」であると言はれてゐたこと。で、きっと何かしらそんなやうなことが頭にあって、ふとしたきっかけで彼の文章を読み始めて、そしたら別段「難しく」も「難解」でもなく、「わかりやすくて」「納得」する文章だったこと。

はて?これのどこが難解なのか、それが難解だ。

さう思ったとき僕は何かしら理解した気がした。なるほど、考へるとはかういふことなのだ。生きるとは考へることなのだ、と。元来、考へすぎで、きっとこのときも色々と考へ悩んでゐたに違ひない。そのとき「生きることとは考へることであり、また考へることこそ生きることである」と教へてくれた小林秀雄は、僕にとっての人生における、やはりなんだか恩師と言っても過言ではない、そんな存在である。そんなこと言ったら小林秀雄はいい迷惑だらうけども。

考へていいのだ。存分に。

むしろ考へればいいのだ、生きるために。

それ以来、ぼくは小林秀雄の全集を図書館で借りて全部読み、その後自分でも全集を買って改めて身近に彼の思想を置いて、事あるごとに頁を開いては彼に触れてゐる。

人間、歳をとるにつれ人の話を聞かなくなったり頑固になってしまふが、歳をとってもかっこいいなぁと思ふ人間は、人の話を聞く余裕のある人間だし、フレキシブルな柔軟さをもった人間だ。小林秀雄は、若かりし頃の研ぎ澄まされた触れたら切れるやうな鋭利な文章から、まさに歳を経て、戦中戦後にかけて柔らかな感情をもった美しい文章となっていく気がぼくはしてゐる。どこまでいっても信念は常に一本通ってゐるから、「トルストイを読み給へ」のやうな無駄のない日本刀で切ったやうな文章もやはり書く。最後、「本居宣長」に至るまで、彼の文章は延々と昇華を続ける。

学ぶべきは、変化を厭はずに信念を貫くこと。

そして彼からの最大の恩恵は、自ら考へ生きること。

その考へるヒントこそが彼最大の贈り物であらう。

小林秀雄の考へ方

考へるヒントとは、考へる枠組みのことである。

どうやって考へるか。

彼の提示した、(といふのは彼が言ってゐるわけではなく、彼の全著作を読んで僕が感じた結論として、)彼が生涯をかけて提示した考へるヒントとは、「目的地を見続けること」である。

彼の文章の特徴は、目的地を見ながらその周辺をぐるぐると探索することにある。目的地は見えてゐるし、このまま進めば目的地に到着するのは確実だけれど、周辺をくまなく回ることによって今まで気づかなかった些細な情報が、実は目的の物にとって大切なことであることに気付かされる、でも目的地には自分で行ってね、なんていふ、親切なのか親切ぢゃないのか結果よくわからない文章で終はる。

それがきっと「難しい」だとか「難解」だとか言はれる所以であらう。僕からしたら、目的地は常に提示してあるし、読みきったあとには1人ではきっと気づけなかった発見を彼が教へてくれてゐるからありがたい。結果、最終的には目的地周辺の、目的地まであと何メートルの地点まで連れてきてくれてゐるからなんとも優秀なナビゲーションである。なんならそこで自由解散といふ無駄な時間は一切取らせないといふ徹底した親切さ。

彼の文章の良さは、余裕のある過ごしやすい日の散歩のやうなものである。

心地よい空気を感じながら、自然を全身に感じて歩く散歩。

散文とは精神の散歩である。

散歩も散文も心身ともに必要な運動のひとつであらう。

最後に

本との出会ひは、その人と出会ふことと同義である。

それ故、本のメリットは故人にも出会へるといふことである。

ぼくの好きな作家で生きてゐる人間はジャック・アタリぐらゐである。パスカルはもちろん、ボードリヤールも小林秀雄も、もうこの世には居ない。でも生きてゐる。本の素晴らしさはそこにある。

秋の夜長に小林秀雄やボードリヤール、パスカルなんて、なんてステキな散歩なんでせう。

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