essay【コロナ禍における心身の不安定について】だから鎌倉仏教らへんに興味があるのかもしれない話

随筆・本・書評

今年も始まってもう20日以上が経過した。年末のバタバタは相変らずの「師走」と言ったところで、前々の年末年始に比べたら、まばらではある人の動き。集合や密接などが制限された昨今では、当然のやうに少人数の人々がこじんまりと動く。大人数でのガヤガヤとした動きはもはやご法度で、世界は2020年を境に方向転換を余儀なくされた。よいことであったのか、悪いことであったのか、どちらだったのかは誰も判断はできないし、それは後世が判断することではあるが、よいことでもあり悪いことでもあったとは言へるであらう。

2020年はあっといふ間に過ぎ去って、2021年もすぐに過ぎていく予感はもうすでに感じてゐる。世界の人々の動きそれ自体は鈍化して、代りに世界の変化スピードは圧倒的に早まった。デジタルがアナログを駆逐するのか?そんな議論はもはや遅く、遅れてゐる。デジタルはデジタルで圧倒的速さでデジタルに進み、アナログはアナログで従来の速度よりも幾分早くデジタルにつられ進んでいく。ぼくがこの文章を書くのもさうだ。アナログもデジタルも境は曖昧に霧の中に消えていく。

曖昧と霧の中。なるほど、世界はどこへ向かっていくのか。このコロナ禍はいつまで続くのか。答へは誰も知る由はない。しかし、この立ち込めた霧の中で、方向を間違っては大変だし無闇に無謀に走り出しても命を落とす危険性がある。ぼくらはどうするべきなのか。どこへ向かっていくのか知る由もないが、どこへ向かふべきなのかははっきりさせておかねばなるまい。いつまで続くのかも知るすべはないけれども、いつまで続くのかを考へるのではなく、今をどうやってどこに向かって生きていくのかを考へることが最重要であると思はれる。あの絵を思ひ浮かべてみるがいい。ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

心身の不安は当然で、抑圧された環境下と先行き不明な世界の中、こころは疲弊し、からだは蝕まれてゐる。自分が思ってゐるよりももしかしたら心身は思ひの外、破損、損壊、崩壊、崩落しかけてゐる状態かもしれない。仕事に変化が出る。生活に変化が出る。感情に変化が出る。家族に変化が出る。環境に変化が出る。子供は学校環境の、大人は職場環境の、公私ともに様々な変化がいつもどおりの心身を通り過ぎて通過していく。過ぎ去る場合もあれば、蓄積される場合もあるだらう。蓄積された変化の因子はその蓄積スピードに本来持った対応力が対応しきれずに心身の汎ゆる面に影響を及ぼし始める

こころが何だか疲れたな。

からだがなんだかしんどいな。

コロナ禍におけるこの心と身体のメンタルヘルスバランスは、実際の身体的ウイルスによる症状よりもきっと根が深く今後僕らに長くつきまとふ可能性がある。アフターコロナを迎へる前に、このコロナによる心身の不安についておおいに語っておかなければならないであらう。withコロナがいつまで続くかわからないが、コロナ不安は当分続く。ぼくらはそこを考へながら生きざるをえない世界に生きてゐる。

最近ずっと鎌倉仏教周辺に興味があり本を読んだりしてゐた。鎌倉、南北朝、室町、あの辺りのことを調べてゐるともうすでにぼくらは色々やってきてゐるよなあといふ印象で、鎌倉仏教が出てきた背景も今の先行き不透明な時代にある種重ねられて語られても良い状況だと思ってゐる。あの時代には様々な宗教が(といっても仏教の宗派が)生まれたけれども、いまはそれがデジタルに変はって、人々があの頃鎌倉仏教にすがったやうにデジタルにすがっていくのかもしれない。そんな風景をおもいひながら、あの時代を乗り越え、今の時代に残ってゐるものは何だらうと考へる。形骸化したものもあれば精神上残ってゐるものもある。大切なもの、大切なこと、重要なもの、重要なことが、すべてその時代を紐解けば見へてくるやうな、そんな気がしてゐる

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